小田切博「どこかで誰かが」第2回 『アメリカ文化史入門―植民地時代から現代まで』亀井俊介編

小田切博「どこかで誰かが」第2回

『アメリカ文化史入門―植民地時代から現代まで』亀井俊介編(昭和堂、2006年)


「知っている」ということがよくわからない。

昔から「知識の有無」みたいなことで誉められたり貶されたりすることがたまにあるのだが、誉められるにしろ貶されるにしろ、ひとが「知っている」ことになぜそれほど価値を置くのかが私にはよく理解できないのだ。

「よく知っていますね」とほめられてもあまりうれしくないし、「そんなことも知らないのか」といわれてもあまり腹も立たない。

知識(情報といってもいい)なんて、当然知る前は知らなかったことなんだし、知らないことなら調べればいいだけの話だ。現時点で持っている知識は常に過渡的なものでしかなく、そんなものを誇るのも恥じ入るのもどこかピントが外れているように思える。

以前取材先で相手から「よく勉強されてますね」といわれたことがあるが、このときは素直にうれしかった。

法律関係についての取材だったのだが、実際にまるで知らない五里霧中の状態から一生懸命勉強したことだったため、その道の専門家である取材相手から自分の理解が的外れではないことを確かめられてほっとしたし、なにより相手の言葉が「勉強する」という自分の行為に向けられたものだったからうれしかったのだと思う。

要するに「自分のやったこと」を評価されるのはうれしいが、自分の現在の状態(知識の有無)を論評されてもその評価そのものにまったく関心が持てないのである。

そもそも私はなんについてであれ自分が「(充分に)よく知っている」などと思ったことはない。

最近はアメリカンコミックスについての本を書いたおかげでマンガ関連の専門の書き手として紹介されることもあるが、じつは私はアメリカンコミックスについてはまるで知識のない状態から書き始めている。マンガ批評の類に至っては数えるほどしか書いたことがなく、書いたテキストの量からいってもマンガ専門の書き手とはいいがたいだろうと思う。

実際、マンガについては現時点でもたいして知っている気はしないし、アメリカンコミックスについては日本には知っている人間がほとんどいないために相対的に詳しいほうだと思うが、それもゼロから自分で調べてきた結果だ。

私は「知っている」から書いているのではないのである。

むしろ現時点で「知らない」から、そのことを「知りたい」からこそ書いている(というか極論知ることさえできればべつに書かなくてもいい)。

そういう意味で「そんなことも知らないのか」という言葉は、自分が「知るべきこと」がそこにあることを明確に示しているという意味では非難ではなく、むしろ有用な助言ですらある……まあ、面と向かってそんなことをいわれれば、人並みに感情面では不快なので、そういわれて相手に感謝するほどできた人間でもないが。

つまり、私は常に「専門性を担保されない門外漢」として大して知りもしないことを泥縄的に調べながら書いてきたライターに過ぎない。

そういう人間にとってありがたいのは、簡便に知りたい領域のアウトラインがつかめる入門書の存在である。

比較文化論の泰斗である亀井俊介の編纂によるこの『アメリカ文化史入門』もそういう泥縄的な「勉強」のために手にとった参考書のうちの一冊だ。

アメリカンコミックスについて書いていて、それがアメリカ文化全体の中でどういう位置づけのものなのかを考える必要が出てきた。しかし、個人的にはアメリカ文化が全然好きではなかったので、当然アメリカ史についての知識も高校の世界史レベルのものしかない。仕様がないから嫌々アメリカ文化史を調べはじめ、この本にもその過程で行き当たった。

「入門」と題されてはいるが、これはリニアに歴史を追った概説書ではなく、植民地時代から21世紀の現代までのアメリカ文化の流れを、ある程度時間軸に沿いながらも、各章を「植民地文化」、「フロンティア」、「映画」、「表現規制」といったテーマの論文として構成した一種の論集としてつくられている。

私は「印刷」、「出版」、「表現規制」といったトピックレベルで興味のある問題が比較的はっきりしているのでこの本の構成は非常に便利だ。知りたい用語や人名を引いて参考書的にも使えるし、章ごとに独立した論文として読んでもおもしろく読める。今後もアメリカ文化について新たに調べる必要が出てきたときにはこの本を使うだろう。

しかし、私が自分が「知りたい」こと、つまりその時点で自分が「知らない」ことが何かを明確にわかっていなければおそらくこの本をうまく使えなかっただろうとも思う。

そういう意味ではこの本を活用するためにはある程度のアメリカ史の知識が必要なわけだが、その知識の存在は「知っている」ことを意味しない。それはむしろ自分の「知らない」ことを自覚するために必要な知識である。

「知らない」と思っている人間だけが「入門」しようと思うのだ。

私は「知らない」ことではなく、「知っている」ことにひとが価値を置きたがる理由が本当によくわからない。