小田切博「どこかで誰かが」第3回 『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』小田切博

『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』小田切博(NTT出版、2007年)

正直にいうとなにを書いていいかさっぱりわからない。

たぶんあとになるとなんのことかわからなくなるだろうから書いておくが、現在は東日本大震災からまだ一週間も経っておらず、現在も事態はまったく収拾していないし、様々なことがいまだに混沌としている。

こういう状況の中で、たしかになにがしかいいたいことがあるような気がするし、むしろ逆になにもいうべきではないのではないか、という感覚も強い。現在の私はそういうきわめて中途半端な気分の中にいる。

ただ、テレビや新聞、ネットなどで多くのひとの言葉を眺めていると、おそらく他のひとはまったくしない連想だと思うのだが、私はどうしても「911」直後のアメリカでの言説、報道のことを考えずにはいられない。

もちろん「911」は完全な人災、犯罪であり、予想外の天災である今回の震災と事象として重なる点は希薄なのだが、私は今回表題に置いている「911後のアメリカンコミックスの変化」をテーマにした本を書くために同時多発テロ事件が起こった直後からのアメリカ、および日本における報道、言説の推移をかなり詳細に追っていた。そのため、今回の震災での報道や言論人の発言、ネットでの反応を見ていると「パニックに陥った社会」の中での言説という点でこの二つの事件を巡る言葉が重なり合って見えて仕方がないのだ。

しかし、そのいっぽうで、被害も災害も現在進行形で起きている状態で、そのように事態を遠巻きに見て分析しようとする自分の心性がはっきり厭わしくてならない。

不安や自罰や感傷などさまざまな感情が自分の中でも渦巻いているのだろうが、不思議と切断されたようになにも浮かび上がってこず、どこか冷めたままだ。正直いってそういう自分は少なからずおかしいのではないかとも思うのだが、それはそれで仕方がない。

私が「911」後のアメリカの言説状況に対して一種強迫的な興味を持ったのは、事件をきっかけにした社会的なパニック状況の中で、マスメディアやネットの言説、ポップカルチャーにおける表現までが特定のイデオロギーと結びつき、はっきりとある方向に偏ったかたちで歪んでいくさまが恐ろしかったためだ。

そして、その「恐ろしさ」が他人事であるうちにできるだけ自分なりに対象化し、分析しておく必要があるのではないか、そういう強迫観念に駆られて一冊の本を書いた。

2001年以降の日本においてはそうしたアメリカの言説状況を冷笑的に論評する風潮が強いが、私は一般のコミックファンが「僕らはみんな生っ白いコミックファンの負け犬だけど、海の向こうのテロリストどもと戦うのが待ちきれない」などと(おそらくは本気で)いっていた状況はとても嘲笑できるようなものではないと当時思ったし、現在もそう思っている。

だから、いま現在原発事故や停電、政府の対応に対して私から見るとヒステリックな批判や非難をおこなうひとびとの言葉を見て、それは件のアメリカでのコミックファンの発言とあまり変わらないパニック発作によって「いわされている」言葉ではないのか、というシニカルな感覚を覚えつつも、それを冷笑的に批判する気にはとてもなれない。

おそらくそうした批判や非難をおこなうひとびとも「自分は冷静だ」と思って発言しているはずなのだ。それを笑うことで「自分の冷静さ」を確認しようとすることは簡単だが、そうすることはむしろ全体としての言説の歪みの後押しをするように感じられてならない。

先にも述べたように私自身たぶんどこか失調しているし、どこかで無理もしている。だが、それは当然なのだ。

状況そのものが異常な中で「自分(だけ)は冷静で落ち着いている」と考えてしまうことはそれ自体「普通ではなくなっている」ということだと考えるべきではないか。

不安もパニックも自分の中にある、それを認めたうえで落ち着こうと努力する。どこにいるとしても、それ以外のことが現時点でできると考えるのは非現実的なのではないか、そんな風に思っている。

最後になりましたが、今回の震災における犠牲者の方に対しお悔やみを、被災者の方にはお見舞いを申し上げます。