小田切博「どこかで誰かが」第4回 『小林秀雄の恵み』橋本治

『小林秀雄の恵み』橋本治(新潮文庫、2009)


この本は2007年に単行本として出版されたものの文庫化である。

刊行当時はたしかけっこう話題になっていたし、橋本治は一時期かなり熱心に著作を読み、小林秀雄にも一定の興味は持っていたため、なんとなく「読みたいな」と思ってそのまま忘れていた。

しかし、橋本治もいざ説明しようと思うといまやけっこうわかりづらいひとになってしまったなと思う。

東大駒場祭のポスターを描いてイラストレーターとして注目され、その後女子高生の口語体で書かれていることで話題になった『桃尻娘』で小説家としてデビュー。80年代のバブル期には糸井重里などと並んでサブカルチャーにおけるアイドル的な文化人のひとりだった。エッセイやマンガ批評などでも先駆的な仕事も山ほどしているのだが、この時期の橋本は飽くまで「サブカルのひと」であり、あまりシリアスな評価を受けていたわけではない。

こうした評価の風向きが変わりはじめたのは、おそらくこれも毀誉褒貶の激しい87年の『桃尻語訳 枕草子』にはじまる一連の古典新訳に手を染めるようになって以降のことだろう。私見では00年代の『双調 平家物語』まで続くこの古典の「現代語訳」というよりは「解読」と天皇崩御と宮崎事件の中で書かれたシリアスな社会時評『’89』以降の批評家としての活動が90年代以降の橋本の活動の中心となっている。つまり、90年代以降の橋本治は、流行などとは無縁な古典研究と批評を二本柱としたなにやら超然としたスタンスの書き手になってしまった。しかし、では彼が圧倒的な社会的権威を獲得しているかというと実際にはそうでもない。アカデミックな場所で地位があるわけでも、一般的な知名度がものすごく高いわけでもなく、これはこれで非常に言及しにくい。

もちろんその間も現在も橋本は時事的なテーマや社会風俗についてもリアルタイムに発言を続けており、独自のスタンスのまま小説も書き続けているのだが、読者としての私はなんとなく橋本治は存在自体が古典化してしまったような気になり、いつしかあまりその動向を熱心には追わなくなっていった。

で、本書の話だ。

この本の冒頭、橋本治は「私にとって、小林秀雄は初めから「古典」だからである」と述べている。小林秀雄は日本における文芸批評の確立者ともいわれる戦後の日本文学、知識人の代表的存在である。このため、この橋本の評価自体はそれほど違和感のあるものでもないのだが、個人的に先述したようなことを感じていたため、この件はちょっとおもしろかった。

もちろん橋本のような書き手を「古典」と呼ぶことにはそれなりの違和や反発もあるだろうとは思うが、もう少しわかりやすくいえば私はなんとはなしに「橋本治は古くなった」と感じているのだと思う。ある意味でこの本を読んでその感覚は強くなったが、それは橋本治は(もう)ダメだ、ということではない。

橋本は本書のテーマを「小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形」を知ることだと書いている。しかし、この本は第二次世界大戦前後という時代に生きた小林の「社会的な諸関係の総体」を描くようには書かれていない。

本書で橋本がおこなっているのは、小林秀雄の到達点とされる『本居宣長』をひたすら丁寧に読み込んでいくことだ。その過程で小林の記述、引いては小林が論じている本居宣長の思考を理解するための補助線として『源氏物語』をはじめとする近世以前の日本の古典文学における言葉や思考のあり方が解説されていく。小林自身をとりまく状況も語られはするが、それは戦中と終戦直後の一時期についてに限られ、この本を読んだだけでは小林秀雄という人物の伝記的事実に関してはほとんどわからない。

橋本治が語ろうとするのはそうした小林秀雄という人物の姿ではなく、彼のテキストにあらわれた考え方、思考の型のようなものがどのように移ろい、どのような可能性と限界を持っていたか、という点である。

ある意味で私が「橋本治は古くなった」と感じるのは、こうした著述のスタイルに由来するものだ。

橋本のテキストは論理による分析ではなく共感や反発によって対象に接近し、自分というフィルターを通してその人物や事象の共感できる部分、よく理解できない部分を切り分け、解きほぐしていき、そこから逆に論理を構築していくことで成り立っている。このため、読者は橋本の視点を共有するかたちで対象を理解することになる。

この点に橋本治のテキストのわかりやすさ、明快さがあるのだが、それは同時にわかりにくさでもある。

本書で橋本は小林秀雄がどういう人物であるか、あるいは近代とはどういう時代区分であるかといったことについてはほとんど説明しない。これらの点に関しては彼の他の著作で語られているため、それらを読めばいいのかもしれないが、もっと端的に感覚的な部分、たとえば「小林秀雄が日本の知的社会の中枢にいる」といった認識はじつは橋本の時代感覚の産物である。

私自身、橋本が「カルチャースター」だった時期に十代、二十代を過ごした人間であり、橋本の中での小林秀雄の位置づけは知識としては理解しているが、正直感覚的にわかるとはいえない。ましてやいま二十代以下のひとたちにとっては、橋本治という人物さえその位置づけが曖昧なものになるだろう。

要するに感覚的な共感を入り口にしているために、橋本のテキストはそのような感覚のずれによってはっきりわかりにくくもなるのである。

だが、古典というのはそもそもわかりにくいものだ。橋本がこの本の中で彼にとっての古典である小林秀雄のテキストに対し「時代感覚の違い」を超えて執拗に肉薄しようとするように「かつてわかりやすかったが、現在はわかりにくくなってしまったもの」はむしろそのわかりにくさを通して私たちに時代の変化を教えてもくれる。

かつて橋本治の文章を熱心に読んでいた時期、私はそこに自分が知りたいことの答が書かれているような気がしていた。いまこの本を読んだ私は、答えではなく、むしろ疑問点が増えたような気がしている。

そして、たぶんそれはそれでいいのである。

小林秀雄には『考えるヒント』というタイトルの著作があるが、本というのは要するに考えるためのヒントをくれるものであり、そこに正解があるわけではないのだと思う。