小田切博「どこかで誰かが」第5回 『世論(上・下)』W・リップマン

『世論(上・下)』W.リップマン(岩波文庫、1987年)

この本は1922年、第一次世界大戦後にアメリカのジャーナリストが大戦とその前後の混乱状況を分析し、考えるために書いたものだ。

要するにこれは百年近く前にヨーロッパでおこなわれた戦争について、アメリカ人が書いたものなのだが、ここに書かれた言葉は奇妙なほど現在の私たちの状況に響き合うものが含まれている。

著者のリップマンは「アメリカン・ジャーナリズムの父」と呼ばれる傑出したジャーナリストであり、その後のアメリカのジャーナリストたちに強い影響を与えた人物である。ただ、日本で一般的に広く名を知られているというほど知名度があるわけではないし、そもそも日本においては海外のジャーナリストのテキストそのものにさほど高い関心が寄せられているわけではない。

本書自体は大衆の集団心理を論じた古典として政治学などで論じられることが多いようだが、ここで書かれている第一次大戦時のヨーロッパの政治状況や戦時のニュースなどは正直いってわかりにくいし、私たちの感覚からはすでに遠い歴史の一ページになってしまっている。

にもかかわらずこの本の記述が2011年の日本においてある種の生々しさを持つのは、これがニュースとその受け手の間の関係を論じたものだからだ。

リップマンはニュースを伝える側の人間、ジャーナリストでありながら……いや、むしろそれゆえに「報道が真実を伝えるものだ」という前提をとっていない。

むしろ、彼はまずジャーナリズムの無謬性を否定する。

ここではその時代の社会状況、直接的な検閲、媒体的な制約などによって事実が歪曲されて伝えられ、受け取る側の先入観によって、それがさらにさまざまなかたちに変形して伝播していくさまを実例を通じて確認していくことから議論がはじめられている。

時代的な制約ゆえに彼がこの本で議論の対象としているのは新聞だが、このような指摘はラジオやテレビなどの視聴覚メディア、インターネットに代表される双方向メディアにおいてもまったく同じことがいえるものだろう。

人間は誰しも生まれた国、地域や階級、社会的地位、普段の人間関係などから生じる一種の思考の型、先入観のようなものを持っている。リップマンは本書においてそのような個々人が「頭の中で描く世界」を「ステレオタイプ」と呼び、人間がまずそのような類型を通して世界を見るものだ、という前提に立つ。そして世界が「われわれの持っている規範に従って体系化されている」ということを否定する。

彼は「ステレオタイプ」の存在によって、ひとびとの価値判断が効率化されているという利点を示しつつ、いっぽうで共産主義や自由主義に代表される「体系化された世界観」が「たえず浮沈しさまざまに流動している」現実の物事を固定的に単純化したものであり、そこにはそれぞれに恣意的な前提が存在しているという。

90年代の日本においてはこのような「体系化された世界観」を「大きな物語」と呼び、とりあえずその終末を宣言することが流行したが、この約百年前のジャーナリストがそこでいっているのはそのような決定論的な論評ではない。そのような「大きな物語」もまたステレオタイプの一種であり、個々の人間がより効率的に社会に適応するための道具なのだ、という認識の提示である。

このようにリップマンが本書で繰り返し主張しているのは、煎じ詰めればひどく単純なことである。

つまり、ステレオタイプはあくまで人間が現実の世界、社会を認識し、行動するための道具であり、私たちはまず自分の持っている世界観、認識がステレオタイプである(しかない)ことを自覚したうえで発言、行動すべきだ、ということだ。

これはひとに対してある種の「分の弁え」を促す、いわば「無知の知」の指摘であり、華麗に世界を体系化して語ってみせる理論家や「大きな物語の終わり」を指摘してみせる批評家の言葉に比べれば、ひどく地味でおもしろみの少ない主張だという気もする。

しかし、私自身はそのような自覚こそがまさにいまという時期の日本で、地に足をつけた考え方をするために必要とされるものではないかという気がしてならない。

なによりも私は現在メディア上で乱舞する陰謀論めいた言葉の数々を眺めていると、リップマンが「きわめて衝撃な事件」に出会った人間が陥る可能性のひとつとして挙げている以下のような記述を思い起こさざるを得ないのだ。

“彼はひじょうに動揺して、それまで受け入れていたあらゆる人生観に不信を抱き、物事というものはふつうそうであろうと考えられているようなものではけっしてないと思うようになることすらありうる。”(上巻、P136~137)

私たちは現在ここで書かれているような「ショック性のニヒリズム」に陥っているのではないか、そう幾分か苦々しく思う。