小田切博「どこかで誰かが」第6回 『文学評論(上・下)』夏目漱石

この本は夏目漱石が帝国大学の講師時代、その最後の年におこない、小説家への転身のために未完に終わった「十八世紀英文学」の講義を元に書かれた英文学の研究書である。

私は漱石の本の中ではこの本が一番好きで、折りにふれ何度となくページを開いてきた。

「英文学者」夏目漱石の著作としては、他に英国留学中に構想され、彼自身を神経衰弱に追い込んだ理論的研究『文学論』があり、おそらくそちらのほうが有名だろうと思うが、私は『文学評論』のほうが断然好きだ。

漱石自身がその体験を「失敗の亡骸」と呼び、挫折感をもって語られる『文学論』に対し、小説家への転職(朝日新聞社に入社しているのでまさに「転職」である)のために中絶した『文学評論』は同じように中絶した未完成なテキストであるにもかかわらず『文学論』よりもどこか吹っ切れた感じがする。

あくまで私が読んだ「感じ」に過ぎないので漱石本人がどう思っていたかはわからないが、当時日本に存在していなかった「文学」というものを理解しようと肩に力の入った『文学論』に対して『文学評論』の漱石はよりクールで、ある意味すでに「文学」というものを理解することを諦めてしまっている。

もっとも、「文学」を「F+f」のような記号による公式であらわせるような科学的構造物として解析しようという無謀としか思えないような試みをしている『文学論』に対して、『文学評論』がより容易に実現可能な方法論をとっているというわけではない。

『文学評論』で漱石がおこなっているのは十八世紀イギリスという固有の時代、社会の「社会的諸関係の総体」から生み出された文化的生産物として「文学」を理解しようという、これまた無謀としかいいようがない試みである。

このため、この本はその方法論を説いた第一編「序言」のあと、文学研究でありながら第二編では「十八世紀の状況一般」として十七世紀から十八世紀にかけてのイギリスの社会、文化状況が哲学、芸術などの文学の隣接領域だけではなく政治や社会風俗の状況までコンパクトに解説され、その後具体的な十八世紀英文学の作家、作品に関する論考に入っていくという構成をとっている。

じつはこの本で私が何度も読み返しているのはこの第一編、第二編ばかりなのだが、ここでの漱石は文学と関連付けながら当時のイギリスの政治、社会状況や芸術の流行までを語りつつ、常に一歩引いた態度を崩さない。

当たり前だが、英語研究者としてイギリスに留学した漱石は絵画や音楽、哲学、政治などの専門家ではない。専門家ではないから「多くを言い得ぬ」といいつつ漱石はそれらの事柄についてかなり突っ込んだ言及をしていく。

逆にいうと漱石がこの本でいっているのは、そのような社会的な文脈を踏まえなければ小説ひとつまともに読めない、ということであり、そのためにできる範囲で理解しようと試行錯誤していこうという現実的な態度の表明だ。

漱石は江戸時代の末に生まれ、明治維新を経験したひとである。

つまり、彼はそれまでまったく接触のなかった「西欧という異文化」にいきなり直面させられた世代のひとであり、彼にとっては西欧の社会、文化、歴史は文字通りそのすべてが未知のものだった。西欧の「Literature」をモデルに明治以降に成立した日本の「近代文学」は漱石が生まれた頃にはまだ存在しておらず、彼自身と森鴎外、二葉亭四迷などその同時代人たちが西欧の文化を受容しようとおこなった試行錯誤の結果生じてきたものだ。

「文学」や「芸術」といった概念は、その後日本の中で自明視されるようになっていくが、漱石たちにとって、それらもまた理解しようと試行錯誤しなければならないまったく未知の「西欧」という異文化のひとつのあらわれだった。

ネットワークで世界中とリアルタイムにつながり、世界史や文学史、美術史の教育を誰もがそれなりに受けている現代の私たちにとっては、それらの知識がまったくの未知のものだった当時の人々の感覚そのものが想像の埒外のものである。

だが、なんとなく「わかっている」気になっている「文学」や「芸術」という概念について私たちはどの程度まじめに考えたことがあるだろうか。

ゼロから積み上げてそのようなものを結果的に生み出さざるを得なかった漱石のような人々のテキストには、愚直に「わからない」ことと直接対峙して繰り返された気の遠くなるような試行錯誤が刻まれている。

『文学評論』の漱石からは「全てを知ることなどできない」というある種の諦念が感じられるが、だからといって全てを諦めているわけではない。

ひとはとりあえずやれる範囲のことをやれるだけやってみるしかない、全てを知ることへの諦めと対になったそのような開き直りがそこにはある。

この本を読むといつもなんとなく元気になるのは、ここでの漱石にそういう健全な割り切りの感覚があるからなのだろうと思う。