小田切博「どこかで誰かが」第7回 『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別』ジョン・ダワー

『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別』ジョン・ダワー(平凡社、2001年)

今回の震災と原発事故以降よく目にするようになったトピックのひとつに「海外のメディア報道による風評被害」というものがある。

実際には「海外報道」に対する国内の見方は、震災直後の「震災への日本人の落ち着いた対応を世界が賞賛」といった「日本すごい」論から、原発事故発覚以降の「放射能」がらみの「海外報道による風評被害」という「日本被害者」論へと論調が変化していったのだが、このまったく逆といっていいふたつの見方に対して私はほぼ同一の感想を持った。

それは「私たちはそれらの報道をどうこういえるほどこれまで海外における日本報道に関心を持ってきたのか」という疑問である。

もちろん政治的にも経済的にも世界中がつながっているグローバル化した現在の社会において海外メディアの報道が輸出入や諸外国からのひとの出入り、株価の変動などに影響しないはずもないが、そういうこと以前の問題として日本についてこれまでどのような報道がなされてきて、それが震災を期にどう変わったかを具体的に見なければ「賞賛」にしろ「風評被害」にしろその存在を確定的に語ることなど出来はしないのではないかと思うのだ。

「日本/日本人論」は国内のジャーナリズムにおいては人気のあるテーマのひとつであり、これまでも様々なかたちで論じられてきた。

80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という景気のいい掛け声から、90年代の「ジャパン・バッシング」論、00年代に盛んに喧伝されてきた「クールジャパン」論に至るまで、それらの日本論はじつは「どこか一部でいわれていることをとりあげて印象批評的に図式化する」というかたちで成り立ってきたのではないか? 私自身は、今回の震災で、むしろそのような疑問を抱かざるを得ないような光景を見たと思っている。

「海外メディアが日本を賞賛」と報じられていた時期にもアメリカのTwitterやブログなどでは「真珠湾を思い出せ」といった人種差別的な発言が盛んになされていたし、「風評被害」ばかりが強調される原発報道に関しても極端な偏向報道としてとりあげられているものは、やはりゴシップメインのイエロージャーナリズムのようなメディアばかりだったのである。

賞賛の報道があるからといって偏見や差別がなくなったわけではないし、メディアの性格を見ずに極端な報道をあげつらっても仕方がない。

そういう意味で目につきやすくわかりやすい図式に飛びつくのは考えものだろう。むしろ問題はそこにある現状をどうやって具体的に把握していくか、ということになるはずだ。そのためにはけっきょく出来るだけ網羅的に実際の海外の報道や言説を数多く見、その背景にある社会やメディアとの関係を地道に考えていくしかない。

今回紹介するジョン・ダワーの日本研究はそのような地道な努力として評価されるべきものだ。

ダワーはピュリッツァー賞を受賞した敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 が日本でも話題になったアメリカの歴史学者だが、今回紹介する太平洋戦争時の日米での差別的な人種観の影響を検証した『容赦なき戦争』も含め、彼の研究は評価にしろ批判にしろイデオロギー的な面からなされることが多い。

たとえば批評家の大塚英志は『敗北を抱きしめて』についてサブカルチャー反戦論 (角川文庫)
などの著作でほとんど揶揄するようなかたちで言及しているが、日米で『敗北を抱きしめて』が注目されたこと自体が「アメリカ人研究者の書いた戦後日本再評価」という多分政治的な見方によるものである。この大塚の言及はダワーの著作というよりはそうした政治的なダワー評価に対する反発からなされているもので、ダワー自身の仕事とはほとんど関係がないといっていい。

実際のダワーの著作は政治的な主張は希薄であり、この『容赦なき戦争』で主張されていることも煎じ詰めれば「太平洋戦争には日米両国の人種的偏見が影響していた」というきわめてシンプルで、ある意味でどうということのない指摘が繰り返されているに過ぎない。

ダワーの研究の価値は目新しい主張やわかりやすい図式化にあるのではなく、膨大な新聞、雑誌、公文書などを渉猟し、それらの資料の中からこれまで常識とされてきた見方とは異なった具体的な影響関係を見出している点にある。

特にマンガや雑誌記事などの風俗資料から当時の社会における通念としての「日本人観」、「アメリカ人観」をあぶりだしていく手法は方法としてはきわめてオーソドックスでありながら、対象に大衆文化を含めたことできわめて独創的な研究となっている。

今回の震災に関しても今後、これらのダワーの著作のように、これまでの類似の災害や事故、日本についての報道との具体的な比較、その変遷を追うような研究がなされていくはずだと思う。

逆にいえば、そうした地道な検証の蓄積もなく印象批評によってなされる評価や批判にどれほどの意味があるのか、そうしたことは考えざるを得ない。