小田切博「どこかで誰かが」第8回 『世界コミックスの想像力 グラフィック・ノヴェルの冒険』小野耕世

『世界コミックスの想像力 グラフィック・ノヴェルの冒険』小野耕世(青土社、2011年)

全然知らなかったのだが、ちょっと調べてみたら「文は人なり」という言葉はフランスの博物学者ビュフォンの言葉なんだそうだ。

小野耕世の文章を読むとなんとなくこの言葉が頭の中ををよぎる。もちろんこれはご本人を直接知っていることが原因としては大きいのだが、理由はそればかりではないとも思う。

小野はアメリカから中東やアフリカに至るまで文字通り「世界中」のマンガやアニメをはじめとするポップカルチャーを戦後の日本社会に紹介してきた人物だ。一般的には「評論家」と呼ばれているようだが、私個人はそれよりもこのひとのあり方は単に「紹介者」というほうがしっくりくる。

私は小野のテキストが「批評的」ではないといいたいわけではない。むしろ対象を論評することでなりたっている現在の「評論」に対し、ものすごい量の「ポップカルチャー体験」に裏打ちされた小野の「紹介」は凡百の「評論」を無効化してしまうような強烈な批評性を持っている。

少なくとも文壇や論壇のような制度によって支えられた文脈によってこのひとの文章を読み解こうとしても、なんだかわからなくなることだけはたしかだ。

一見すると小野も文中で取り上げた作品や作家を評し、論じているように見える。実際本書においても「すぐれた作品」、「すぐれた作家」という表現は散見される。そこだけ見ると小野も作品や作家の優劣を論じているようだが、よく読んでみるとそこでの優劣は飽くまでも小野個人の価値観、自身の読書や映像体験からくる「好み」によるものだ。

そこで語られている「優劣」は、小野耕世という個人の存在を抜きにすると成り立たなくなるようなきわめて個人的な価値観に基づくものなのである。

イデオロギーや批評理論によって担保された「価値」ではなく、小野は飽くまでも自分自身の読者としての好みから導き出されたおもしろさや美しさによって作品の優劣を語る。それは第三者的な論評ではなく、読者という当事者性に立脚した「個人として」のおもしろいもの、美しいものの紹介なのだ。

そのような紹介を可能にする嗜好/美意識を支えているのが、膨大としかいいようのない雑多かつ広範なマンガ、アニメ、文学、映画の読書、観賞経験である。

私は小野のテキストの特徴として「連想記法」とでもいうような独特の文体、記述上のスタイルがあると思っている。

雑誌『ユリイカ』に連載された世界のマンガ作品を紹介するエッセイを一冊にまとめた本書を一読してもらえばすぐわかると思うのだが、小野の文章はじつに頻繁にあちこちへ話が飛ぶ。自身の作家との邂逅の思い出からその作家の作品の話、その作品を介して別なマンガや映画、小説などの話、そこから連想されたまったく別な体験談へと話題は自由に移り変わっていく。

一章ごとに特定の作家の特定の作品の紹介に充てられた本書のエッセイは最終的にはそれぞれの作品の紹介へと収束していくのだが、その中に散りばめられた雑多なエピソード、副次的に語られる作品の話題がひとつのテキストとしてまとまりを持つのは語り手が小野耕世だからだ。

その意味で、取り上げられている作品が私自身が読んだことがあるものであった場合でも、小野のテキストに書かれていることの6割くらいは全然知らなかったり、なんだかわからない話である。

そして、だからこそこのひとの文章はおもしろい。

そこに描かれた新たな知見や知らなかった作品の存在はこちらの好奇心をかきたて、新しい世界へと誘ってくれるからだ。

じつをいえば私はそれらのテキストで紹介された作品を自分で読んでみてけっこう小野と違った評価、感想を持つことがあるのだが、それはそれでいいのである。

重要なのはそのテキストが切り開いてくれた新しい世界であり、それが結果的に私自身の嗜好をも豊かにしてくれる。そうして得た体験を通して、趣味があえばあったで、感想が違えば違ったでまたテキストを通して小野耕世と対話すればいい。

「小野さんの文章って「文は人なり」だよなあ」と思う所以である。